数カ月ぶりに研究所へ戻った俺は、以前と同様にあの博士のもとへ向かい、メンテナンスを受けた。
向かう道すがらにあの少女の姿は見えなかった。
たった一度会っただけの人間だ。もう会うことがないとしても、別に大したことでもないはずなのだが…、俺の中に引っかかるものがあるのも事実だった。
「ほれ、これで終いじゃ」
「……」
俺の肩をポンと叩き、博士は機器や器具を片付けに入っていた。だが気付かずに、俺はまだ思考に頭を巡らせていた。
「なんじゃ、ブルース。今日はすぐに帰ろうとはしないんじゃなあ。ははあ…考え事をしとるじゃろ?」
彼にしたり顔で覗きこまれて、いい気分はしなかった。
「…何でもない」
「ふむぅ。どんどん思考の幅が拡がっておるようじゃな。いい傾向じゃ」
顎に手をやってうんうんと頷く仕草を見て、何か言ってやりたい気も起きたが、それ以上に先の件について訊いてみたくなった。
「…この研究所には、人間の女も住んでいるのか」
「おお、会ったのか?あれはワシが――」
「住んでいるのか」
「そ、そうじゃ。」
“また来て”の意味はやはりそういうことだったようだ。
「今、ここにいるか?」
「もうこの時間じゃ。自室にいるじゃろう」
夜這いするなら2階の東の角部屋に行きなさい、とニヤニヤして言いながら、博士は俺を強引に研究室から追い出した。
しかし…ヨバイ?普通に歩いて移動するが、這いはしない。意味がわからなかった。
この施設を堂々と歩くのは他の輩に会いそうで気が進まない。俺はいったん外に出て、その部屋を探すことにした。
方向感覚は悪くない。あちこちへ移動するのが俺の日常でもある。場所はすぐに見つかった。
テラスのある窓からカーテン越しに明かりがもれる部屋が一つ。隣周辺の部屋は暗い。ここに間違いない。ちらちらと小さな影が揺らいでいた。おそらく彼女だろう。
居るとわかったのなら、今日は十分だ。明朝にでも声を掛けるか、いや――。
……。俺は、俺は何をしたいんだ?
面と向かって会いに行くなんて性に合わないというのに、いつの間にかその気でいた。
会って、どうする?何か目的があったか?
「……」
――「今度会えたら、わたし、自己紹介するから、そのときは聞いてほしいの!」
自己紹介を聞きに来た?それが理由か。
…もう一つあるとすれば、この首にある黄色いマフラーだ。あれから、何となく着けたままにしていた。人間ほど寒さを感じたりはしないので、不要といえば不要だが…。彼女は貸すともくれるとも言ってはいなかった。それを訊けばいいのか?
……先ほどから考え過ぎている気がする。俺は深く息を吐いた。
建物と向かい合うようにして、いつも通るあの雑木林が生い茂っている。ひとまず樹にでも上がって、デフラグしたほうがよさそうだ。
「……」
枝に腰をおろして幹に寄りかかると、目を閉じていつもの旋律を口笛に乗せる。こうすると、落ち着いてくる気がする。使う機能を最小限にして、内部の乱雑に散らばったデータのかけらを整頓していく。
が、物音にその作業は中断された。
開いた瞳は、バイザー越しの暗がりからあの光源に焦点を定めた。開いたテラスに、人影がひとつ。
「あ…やっぱり!」
そう言って手すりから大きく身を乗り出し、一心に俺を見つめていたのは…あのときの彼女だった。
俺は樹から降りて、じっと見かえした。彼女は少し、髪が伸びていた。
しばらく何もしないままそうしていたが、彼女のほうが先にハッと思い立ったようで慌てて叫んだ。
「まって、その、そっちに行きますから!」
どうも、俺が消えると思ったらしい。部屋に戻ってせわしく薄着のネグリジェの上に羽織り物をかけようとしているが、手間取っている。
そんな必死な姿は妙で可笑しく思えた。そこまでしようとするほど俺に関心があるのか?やはりよくわからない人間だ。
「…いや、いい!」
俺がそこへ行ったほうが早い。言うと同時に、俺は走って建物の支柱に掴まり跳んだ。テラスの底部にぶら下がり、足をかけて手すりをまたぐ。こういった能力は人間のそれとは段違いだ。
「すごい…」
カーディガンを羽織った彼女が驚いた顔で見ていた。ここに住んでいるならば、俺のようなロボットがどういうものか、知らないわけでもないだろうに。
「……自己紹介は」
「…え」
「するんだろう?自己紹介を」
「覚えてたんですか!」
胸の前でパチンと手を合わせ、嬉しそうにした。
「わたしはっていいます。あなたと最初に出会ったとき、の一ヶ月くらい前からここに住み始めて」
つまり彼女…はここの博士との血縁者でも何でもなく、単に連れて来られた身寄りのない人間だという。
手すりにもたれかかり、軽く脚を組んで聞いていた俺に、今度はから質問された。
「あの、あなたの名前は?」
「…ブルース」
「ブルース…ブルースさんていうんだ!ここのひとじゃないの?」
「違う」
「そうなんですか…。じゃあ博士とは違う人が、ブルースさんを作ったの?」
「……」
あまり自分のことを聞かれるのは好きじゃない。黙った俺を察するように、が喋った。
「あっ、訊きすぎてたらごめんなさい!わたし知らないことばっかりだから、つい…」
彼女は彼女で事情持ちだろうか。詮索は野暮だろう。
「…これ」
俺はマフラーを解いて出した。
「ああ、それはもうブルースさんのものです。持ってて…着けていてください。できれば…」
困ったように眉が下がり、手のひらを胸の前に出して振っている。
「それとも…要らなかったですか?」
「違う、いや…そうか」
否定の言葉が口をついて出たことに自分でも驚いた。
「余計なことしちゃったかなって思ってたんだけど…嫌じゃないならよかった」
がほっと息を吐いた。…ほんの一時会っただけのロボットに対してずいぶんと気を回すものだ。
いずれにせよ、目的は達成された。これ以上にすべきことが見つからず、かといってすぐ出立する気にもならず、俺はテラスから夜空を見上げた。…今宵は月が迷子だ。
「あの…もう行っちゃうんですか」
「……」
「明日まで…、その、もう夜遅いし…。よかったらお部屋も使って――」
「いや、いい」
そこまで世話にはなれない。この場に馴染みすぎるのも、俺にとっていいことではない。本来ならできるだけ早く、離れるべきなのだ。
――そう、離れたほうがいい。
俺はマフラーを巻きなおすと、手すりに足をかけた。
「でもわたし、もっとお話したくて!せっかく会えたのに…」
背へ届いたその声音に、思わず振り向く。
わからない。どうしてそんな、悲しい表情をする?
「明日、明日わたし…ブルースさんのこと探します。ここと、あの林くらいしか行けないけど…。だから、気が向いたらでいいから、居てください!」
「……」
返事は、しなかった。約束なんて俺にはできない。一気に地面まで飛び降り、俺は林の中へと駆けた。
一回だけのほうを見やると、部屋に入らずこちらを見つめていた。きっと、俺が見えなくなってもしばらくはあのままにしているのだ。最後の必死な様子を思い出して、何ともいえない気分になった。
おかしい。彼女に絡むと、わからないことばかりがおこる。俺自身の気持ちさえあやふやになるのだ。
ここを去るのを迷っていることもそうだ。今までこんなことはなかった。
気が定まるまでは、また樹の上にいることになるだろう。すぐに結論は出せそうになかった。