研究所から外へ出ると、陽が落ちかけていた。
今日は風が強く吹いている。緋色の空の下、木々の葉がせわしく揺れて落ちていた。こんな趣味の悪い建物がある割に、この一角だけは周りに緑が多く、実にアンバランスな風景だと来るたびに感じる。
だがこの景色は、案外嫌いじゃなかった。
あの博士は妙に機嫌が良かった。会うのは数回目だが、外から戻ってくる度に「ワシに協力しろ」だの何だのと理由をつけて、決まって俺をここに引きとめようとしていた。だが今日は「またメンテナンスが必要になったら来なさい」などと快く送り出されたので、口には出さなかったもののこちらの調子が狂ってしまった。
ともあれ、ここにいる理由もなくなったので、俺は来た道を戻ることにした。ここのロボット共にもできれば会いたくはない。開けた道路を横切り、雑木林を抜けるのをいつものルートにしていた。
枯れ葉を踏みしめる音に合わせて、俺は自然と口笛を吹いていた。
一人でいるときに、なにか思うようなことがあると口笛を吹く癖がある。その“なにか”というのは、うまく表現できないのだが…。
「お兄ちゃん?」
突然の声が旋律を遮った。女の声だった。
振り返ると、まだ少女と言ってよさそうな見てくれの人間がそこにいた。見たことのない顔。そもそも、ここであの博士以外の人間と出会ったことがなかった。
兄弟を探しているのか?あの博士が兄だとは考えられないので、奴の親類か何かか。いや、そんな者がいるなんて話はどちらの博士からも全く聞いたことがない。
「あの、ごめんなさい。ちょっとだけ見えたから、間違えちゃって…」
人違いをしたことを謝ると、彼女は俺の顔を見つめた。彼女もまた面識があったか記憶をたどっているのかもしれない。
それにしても、警戒心が全く見えない。だいたい俺の姿を見て、ロボットに対して“普通に話しかけている”時点で普通でない。俺のようなヒューマノイドはまだ少ないのに、見慣れているのか?
「研究所に用があったんですか?」
俺の疑問をよそに、彼女は話し続けた。吐く息が白い。
俺は答えるべきか判断に迷った。
「……」
「その…博士のロボットじゃ、ないの?」
話ぶりや態度から考えると、どうも彼女は“ここの人間”であるようだ。俺のいない間に出入りしたのだろう。
「あなたは、誰?」
「……」
互いに黙って、木枯らしの音だけが空気を震わせた。
彼女は俺が答えるのをじっと待っている。
当然の質問だろうが、俺は思案した結果一切答えないことにした。あまり俺のことを知られたくはない。この施設で面識のある存在が増えるのは不利益だと考えたからだ。
このまま去るのはあまりいい気分ではないが、俺は踵を返して歩き出した。
「ま、待って!」
「っ!?」
ものすごい勢いで腕を掴まれ、調整したばかりの動力炉が脈打つ感触を覚えた。
バイザー越しに彼女の顔を見る。驚いたのは伝わっているだろう。
「あっあの、もしかしてその――、そ…そう!腕、すごく冷えてる!」
なにか言いかけたようだったが、彼女はわざとらしく話題を切り替えた。
そして身につけていた黄色い布をほどいていく。
「こんなマフラーしかないけど、足しにはなると思うから」
肯定も否定もしない俺に、勝手にそれをぐるぐる巻きつけた。焦って巻くものだから、俺の首まわりはごちゃごちゃだ。
「これから寒くなるから、気をつけて――」
「……」
格好からして出掛けた帰りのようだし、手がかじかんでいるのかもしれない。
ならばこの布を必要としているのは彼女のほうだ。寒さを感じている人間が、なぜ俺にこんなものをつけるんだ…?
「それと!」
黄色い布の端を掴んで見つめていた俺の手を取って、彼女は続けた。
「今度会えたら、わたし、自己紹介するから、そのときは聞いてほしいの!」
グローブ越しに伝わる温度は、やはり冷たかった。
「だから…また、ここに来てね?」
そのマフラーをつけていたら、絶対見つけられると思うから――。
にこりと微笑みながらそう言うと、彼女は研究所のほうへ走って行ってしまった。
姿がなくなるまで、俺はぼうっとその方向を見つめ、突っ立っていた。
…なんだったのだろうか。不思議な人間だった。
黄色いマフラーをしていて。分厚い衣服を纏って寒そうなのに、マフラーを俺に巻きつけるなんて。
それに――最初、こう言ったのだ。この俺を。
「お兄ちゃん…とは…」
そんな呼ばれ方をされたことはなかったが、その響きに昔を少し思い出した。
――「ブルース。まだボディしか出来上がっていないものも多いが、ここにある8体がおまえの兄弟になるんだ。よく見なさい」
白いひげを蓄えた、俺の創造主。
――「この“ロック”と“ロール”はもうしばらくで稼働できる段階まで来ている。二人は家庭用のお手伝いロボットなんだよ」
黒髪と金髪、青と赤のボディのコントラスト。
――「おまえが“戦闘用”として働く必要も、もう少しでなくなる。そうすればこの二人の“兄”としてここで暮らせるだろう」
俺の、存在意義。
戦闘用として生まれ、その存在を否定され、逃げ出して、創造主と敵対するこの研究所で延命し……そしてここに付くこともしない。
“兄”でもなんでもない。今の俺は、全てを拒んでいる。
ならば――俺は、俺は、いったい何なんだ?
――……。
「くっ…」
北風がマフラーを解かんと激しく吹きつけた。
そうだ、もうここにいる理由はない。
風のせいでいっそう不格好になったマフラーを結びなおして(それくらいは俺でも出来る)、俺は木々の中を駆けだした。
無言で動いていると、さっきの出来事が繰り返し思い出された。
彼女の声、彼女の手、彼女の笑顔。終わりのないスライドショーのようだ。
彼女の名前すら、わからないのに。
…ああ、そうか。
あのとき彼女は、自分の名前を言いたかったのかもしれない。
だとすると、もしもまた出会えたときには彼女の名前を聞くべきだろう。
そうしたら俺の名前も言わなければいけなくなりそうだが、今になって、彼女ならそうなってもいいような気がしていた。
それから――彼女の“兄”について聞いてみようか。
俺がならなかった、いや、なれなかった“兄”とは、どんなものなのだろう。
このマフラーも、そのときに返したほうがいいだろうか。
その時には何か話さないといけないだろうか…。
……。なんだか、今の俺は変だ。なんだろう、この感じは。
こんなにも誰かに対してあれこれと考えたことが、今まであっただろうか。変な気分だ。
彼女に会えるかもわからないのに、こんな――。
いや…。
「……また、ここに来て…」
そう、言っていた。
ここに来れば、会える…?
「…フ」
不思議だった。今からここに戻るのが、少し楽しみになっているからだ。
今度ここへ戻った時には彼女を探すのもいいかもしれない。
また偶然に、彼女と会えるような…そんな気がしていた。