昼下がりのリビングで、わたしは繕いものをしていた。
…というのも昨日、とあるカレがはしゃぎ過ぎてカーテンを裂いてしまったからだ。
買い替えるほどでもなく、ミシンがあればすぐに直るものだったけれど、ここにはないので手縫いをしないといけなかった。なので、縫い物の練習も兼ねてわたしがする、と手を挙げた。
縫い物自体をやったことはあるけれど、数をこなさなければ上手くはならない。だからこの課題は、ちょうどいいと思った。
何より、今日はみんな用事があって、ほとんどが家を空ける予定だった。そうなれば、暇な人…つまりわたしが率先してやらなくちゃいけない。
「……」
でも…ひたすら運針、という単調な作業のせいか、わたしはぼんやりし始めていた。半分を超えて、慣れで気が抜けてきてしまったのか…。
だんだん腕が重たく感じてきた。せっかくきれいに揃えられるようになった縫い目には、ムラが出ている。
「…あふ……」
…あくびが堪えられない。ソファに身体が沈んできた…ような気がする。
ここは現実か…それとも夢?混ざり合って、世界がぐにゃぐにゃする。あぁ、このままうつらうつら……ダメだ、今…舟を漕いでしまったら――。
「あれ、ちゃん…?」
まどろむ空気は、来訪者の声に震えた。持っていかれそうだった意識が、少しだけ戻る。
「…ばぶる、兄さん」
…あれ、どうして。バブル兄は、中の仕事だったから…?
考えても…頭が鈍っていて、うまくまとめれらなかった。
「あらら…。、がんばり過ぎちゃったんじゃない?」
たった一言返しただけで、バブル兄にはわたしがどんな状態かわかってしまったらしい。
わたしの視線はうつろながら、こちらに駆け寄る姿を捉えた。
「もう…、針持ったままで危ないでしょ。いいから、いったん離して」
そう言って、バブル兄はわたしの手から針と布地を取り上げてしまった。…まだ、縫わなきゃいけない。でも、それを追いかける気力がない。
「なんだろ…どうしちゃったんだろう、わたし」
「急に暖かくなったせいかな、ちゃんと寝ているのにな、…なんて考えてる?」
心の中を言い当てられてしまった。ほんとに、どうしてわかっちゃうんだろう。…不思議だ。
「理由とか、そんなのはいいの。」
少し離れたバブル兄は、周りをきょろきょろと見つつ、わたしに話しかける。
「疲れてても、そうじゃなくっても…眠いときは眠いもの、でしょ?」
「……」
…それは、そうだけれど。だからと言って、こんな途中で眠るわけには――。
そんな長い言葉を喋るのはとても億劫で、結局わたしはなにも言えなかった。
一方のバブル兄は何かを見つけたらしく、それを手にまたわたしのそばに寄ってきた。
「ここでさ、そのまま寝ちゃいなよ」
すっとしゃがんで視線を合わせてから、バブル兄はわたしを幸せな世界に誘う。あぁ…なんて、甘い言葉。
「…、でも――」
「カーテンなんて、放っておいても明日には直るから。夜にはみんな帰ってくるの、知ってるでしょ」
几帳面な兄さんも、愚痴を吐きつつもちゃんとやってくれる弟だっているんだ、任せなよ。
ぱちりとひとつ、ウインクをして、バブル兄は持ってきたブランケットをふわりと掛けてくれた。ゴーグルを持ちあげているから、兄さんのきれいな碧い瞳がよく見えた。
「それにね」
近づいてきたその瞳の中に、ぼんやりしたわたしの顔が見えた。…恥ずかしいけど、どうにも出来ない。
「ちゃんを起こさないようにベッドへ運ぶくらい、おれにだって出来るからさ」
もう動くの、しんどそうだもんね、とおでこを撫でながらバブル兄はやわらかく微笑んだ。
温かくしてくれたその手が……どうしようもなく、心地いい。
「…ばぶる、兄ぃ…」
あぁ――睡魔が「おいで、おいで」と手招きしている。バブル兄は、わたしの睡魔と手を組んで…わたしをこの世界から切り離そうとしている。
いやだ…。まだ、ここでは。わたし…。
「見つめてくれるのは嬉しいけど、今はもう、目を閉じるの。」
声にならない気持ちを、とろけ始める視線に乗せるも、取り合ってくれなかった。それどころか、手のひらが額からまぶたに降りてきた。…わたしはもう、除けられない。
ふつりと、世界が暗転する。じんわり、わたしの瞳が温まっていく。兄さんの姿も、碧い瞳も、見えなくなってしまった。
さらに、「お喋りも禁止。」と付け加えられて、唇に人工皮膚の感触が伝わってきた。たぶん…これは人差し指だ。
「あ。…これじゃないほうが、得だったな」
今日はみんな、いないわけだし――。
その呟きは、いつもよりもはっきり聞こえた気がする。
わたしへ届くか届かないかのうちに、唇の真ん中だけ触れていたものが離れていた。今度は違う感触でおおわれて、また離れる。
「ふふ。…なんだか、わかった?」
悪戯してごめんね。可愛くって、ついズルしちゃった。
バブル兄の声は、ぜんぜん謝っているようには聞こえなかった。今にもクスクス笑い出しそうで、楽しげだった。
隣に腰掛ける感触がしたけれど、手はずっとわたしのまぶたに乗っかったままで、瞳はもうすっかりぽかぽかしていた。…答えを見せてくれるつもりはないみたいだ。
「……ん…」
わたしはといえば、口を開く気力はすでになくなっていて…言葉にならない音がひとつだけ鼻から抜けた。
…バブル兄にはわたしの返事なんて、もとから要らなかったのかもしれない。
「はこっちに倒れちゃえ。」
ほんの少し、肩をひかれた。
それだけで…わたしはバブル兄のほうに身体が崩れる。
「…おやすみなさい、ちゃん」
優しい優しい、別れの挨拶。
「 」
その後に…耳元でささやいた、バブル兄の言葉は――?
うやむやのうちに……わたしはこの世界から落ちていた。